なぐさめのやくそく(使17:31)
若い日にイエス様を信じ、すべてをささげる決意をして、今日まで歩んできた。年月はそれなり過ぎたけれど、振り返るとき、何かを成し遂げたとか、何かをこの手に得たとか、そういうものは何もない。
自分自身のうちに燃える情熱と夢は今や色あせたように見え、かつてはこのままいつまでも働き続けたいと思えた体力ももうなくて、だからといって年相応に成熟した人格に到達したかと言えば、未だうんざりするほど遠いところにいる。
今日できることだけをやろう、と自分に言い聞かせても、一日が終わるとき、いったい今日何ができたんだろうと焦りだけが残る私の心に、聖霊は今みことばで語られた。
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により
義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。
そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、
このことの確証をすべての人にお与えになったのです。
そうだ。日は決まっている。
私のために死なれた救い主は、
義をもって来られ、世界をさばかれる。
イエス様はよみがえりをもって、
そのことの証拠とされた。
私が信じて続けていることも、
私が伝えて続けていることも、
間違っていないよと、
聖霊がやさしくなぐさめてくださった。
感謝します。