味なしクリスチャン
ですから、塩はよいものですが、
もしその塩が塩けをなくしたら、
何によってそれに味をつけるのでしょう。(ルカ14:34)
「私はクリスチャンです」と言う時、
そうでない人を排除する気持ちも、見下げるつもりも毛頭ない。
クリスチャンであること自体「自分は罪人」と認めた結果だし。
けれどもそう聞くとノンクリスチャンの人は、
どうしても一定の距離を感じるようだ。
そんな相手の心の垣根を除こうと、
「私もあなたと同じ人間」アピールをすることがある。
よい関係を築き、イエスさまを伝えるためだったとしても、
話題や趣味に理解を示し、行動を共にしているうちに
はじめの目標を見失ってしまうことがある。
クリスチャンが神様の視点で見ることをやめ、
霊的な思考やことばを失ったら…
この世の人たちと何も変わらない歩みをするなら…
塩けのない塩のように、役に立たないものになってしまう。
ノンクリスチャンの友人が知り合いのクリスチャンについて、
「日曜に教会に行くこと以外、まったく私たちと変わらない」と
話してくれた。そのニュアンスは「親近感」ではなく「期待はずれ」だった。
ノンクリスチャンがギャップを感じたり、違和感を持ってこそ、
「塩けを保っているクリスチャン」だと言えるんじゃないかな。
実際、彼らが本当に求めているもの、彼らに必要なものは、
同意や同調ではなく、正しい「評価」「判断」「宣告」なんだ。
人々がカウンセリングよりも占いに走るのは、
時間をかけて答えをさぐるまどろっこしさを省略し、
さっさと断言してほしいからだ。
自分の中から答えを探していてはらちが明かないことに
うすうす感づいているからかも知れない。
友人のことを本当に思ってるクリスチャンならば、
真正面から問題提起をしてあげるはずだ。
真理をうやむやにして関係を保つことを優先させる
味なしクリスチャンにはなるな。と自戒を込めて。