レッドシグナルでキャンセル
準備万端、後は白玉団子作って、みんなが来てからたこ焼き焼けばOK…というところへ「雨がすごいよね。今日はやめときましょうか?」の電話。うちはアクセスが悪くて「何が何でも来んか~い」とは言えない辺鄙なところにあるので、「ではまた日を改めて~」ということになりました。残念。
作ってしまっていたお寿司とポテトサラダは上階に住むカップルに半分もらってもらった。
夕方、雨が上がったので海岸を散歩。
ほんとは白玉あんみつのはずだったけど…脱力で白玉省略バージョン。
夜は賛美の練習みっちりしました。来月の歌↓
ソドムとゴモラのさばき、悪しき世に対する神のみこころ 創19:23-29
神様の物語には、映画のようなシナリオがあり、
神様のカメラはキャストたちを追う。
タイムテーブルに沿って、絵コンテ通りに場面が動く。
どんな破壊や危険が襲ってきても、
主要人物たちはそれをかいくぐって生き延びる。
警告を無視した者が報いを免れないところも
期待を裏切らない。
どの時代にも、筋立てはこんなにシンプルなのに、
人間はそのシナリオ通りに進めることを嫌がり、
自分のやり方やアレンジを加えようとする。
神様という総プロデューサーの指示をよく聞いて、
その通りにふるまうことが、一番美しいストーリーで、
キャストも輝くとわかってはいても…。
季節の不調に向き合う
公園の桜はほぼ満開。ユキヤナギも真っ白にたわわに咲いてる。芝生ではシートを敷いてピクニックするグループがあちこちに。向こうの遊具からは子供たちの声が聞こえる。陽の光と目に映る景色の明るさとは裏腹、心の中は真っ暗、浮かんでくることばは「闇」「絶望」。大げさなようだけれど、放って置いたら、思考はどんどん闇のループにはまっていく。
誰かに聞いてもらう?道を歩きながら思いめぐらして探してみた結果、ひとりも見つからなかった。何のしがらみも利害関係もなく、私の状況と立場、性格や能力を理解して、聞いてくれる人なんて、ひとりもいなかった。(あたりまえや)
明るい景色のわりに冷たく強い風、かえってそれに救われた。寒さに耐えられず、公園を離れて図書館へ。脳科学者中野信子さんの本を借りようとするも在庫なしで、結局「キレる!」と「『嫌いっ!』の運用」の二冊を電子書籍で予約。
帰りに「蓬莱の豚まん」と近所のカフェで「カヌレ」を買って帰宅。暖かい部屋でおいしいコトしたら少し心が緩む。
夕食は手抜きをしようとお刺身を買ってある。夜にはまた実家へ行って両親の世話があるから、その前にお風呂に入ろう!と思い立って早めに入浴した。
夜帰宅して調べてみたら「春バテ」なるものがあるらしい。「季節性感情障害」とか「気象病」ともいうらしいが、寒暖差や気圧の変化が激しい季節に起こりやすく、自律神経、心身ともに不調に陥ることがあるとのこと。解消法は、多めに寝る、ちゃんと食べる、忙しくしない。豚まんやお風呂も間違ってはなかったね。
父90歳。私今年60歳。父の年まで生きたとしてあと30年もある。その時まで心配と不機嫌な毎日を積み重ねていく?そんなのイヤだ。だったらまず、今日をよいものにしよう。…と思えた。ブログタイトルも「JUST FOR TODAY」ゆうくらいやし。気づかせてくださった聖霊様に感謝します。引き戻して下さったイエス様に感謝します。
平安の根拠 イエス様の復活 ルカ24:36-43
「平安があなたがたにあるように」36節
イエス様のあいさつに反して、弟子たちの反応は「おびえて震え上がり」「取り乱し」「疑いを抱く」というものだった。
イエス様が手足を差し出し、よく見て、さわって確かめるように言われると、今度は「喜びのあまりまだ信じられず」「不思議がって」いた彼らを納得させるため、魚を食べて見せられた。
弟子たちがこの短時間で恐怖、混乱、疑い、歓喜、不信、疑念という感情の浮き沈みを経験することをご存じで、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と声をかけられた。
イエス様は40日後、弟子たちを離れて天に戻られ、彼らの前からその姿を消される。イエス様の復活を確認したこと以外は、弟子たちを取り巻く世界は何も変わらず、彼らの日常・人生は続いていく。
ただ、イエス様の復活によって神の約束は証明された。天の御国と永遠のいのち、やがて来る神の裁き、すべてが確かなもの、信じていいものと確定した。
だから、この後の弟子たちは、何が起こっても、何を失っても、「平安」をもって、約束の日を待ち望みながら進んで行くことができた。
今日、イエス様は私にも「平安があるように」と声をかけてくださる。
「暗い顔」の理由 ルカ24:13-35
イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
この時、彼らには「イエスがよみがえった」というニュースはすでに届いていて、(22-24節)道々ふたりで話していたのは、もっぱらその話題。
ところが彼らは、以前イエス様が語られた約束や聖書のメシヤに関する預言につなげることをせず、「自分たちの見解」にとどまっていたがゆえの「暗い顔」。
もし彼らに聖書のメシヤ預言の理解と、イエス様が語られていた「十字架と復活」への信仰があれば、エマオの途上は希望と期待にあふれた会話になったに違いない。
イエス様は、そんな彼らに近づき、諭してくださる。そんな状態になるのは、「愚か」で「心が鈍く」「信じない」からだと。彼らと同じように、私が暗い顔になったり、失望や困惑する理由も同じ。
そして、すぐに彼らにご自身を明かすことをせず、まず「預言者たちの言ったことすべて」「聖書全体に書いてあること」を解き明かされた。
それは、私を含め、今後すべてイエス様を信じる者たちのよりどころ、立つべき場所、「暗い顔」解消の秘訣を示すためだった。「病がいやされた」「必要が満たされた」「祈りが聞かれ、奇蹟のような事が起こった」とか、そんな時間と共に色あせるであろう体験に基づいた喜びではなく、「みことばの約束への信仰」。それこそ、心に光をともす、心を燃やし続けるものなのだ。
イエスは神なのか? ルカ22:63-71
「おまえがキリストなら、そうだと言え。」
「では、おまえは神の子なのか。」
最高法院でのこの質問に対するイエス様の答えは
「わたしはそれです。」
今もこの証言について議論は続いている。
公生涯で行った数々の奇蹟、十字架と復活という決定的な証拠がが示され、目撃者たちの証言をもってしても、いまだ人は「信仰によって」しか、「イエスは神・救い主」というメッセージを受け入れる道はない。
もし今日、携挙(空中再臨)が起こって、世界のSNSで話題になったとしても、それに懐疑的な人はなお残るだろう。
結局、最後の時、イエス様が栄光の雲に乗って地上に降り立つその時、全世界がこの方を見て嘆く。この物語が本当に結末を迎える時。
雑魚キャラ?エキストラでも、いないと物語は成り立たない。神様の壮大なパズルの完成に向かって、端っこピースのひとつであることを自覚しつつ、隣のピースとつながり、うまくはまる場所を探す。今日もそうやって生きて行く。